
大学卒業後、中島さんは大手の航空会社に就職。だが「おぼっちゃんばかり」の社風に肌が合わず、わずか1ヶ月で自主退職を選択する。その後、金融会社を設立。右肩上がりの経済成長に支えられながら会社は順調に拡大したが、バブルの崩壊とともに莫大な負債を抱えることに……。そのとき、まったくの新事業として彼が選んだのが飲食業界だった。
「なぜ飲食かって? ほかにやることがなかったんですよ(笑)。外食産業っていうのはそこに看板を立てれば人が集まってくれる装置産業じゃないですか。私、営業があまり好きじゃなかったんです。だって役に立つものならいいけど、役に立たないものを売りに行っても嫌な顔されるだけでしょう? でも飲食業なら評判のいい店を作れば、必ずお客さんは来てくれるだろうという自信があった」
1990年、際コーポレーションの記念すべき第1号店となる「韮菜万頭(ニラマンジュウ)」が東京・福生にオープンする。このとき中島さんは42歳。新事業に手を出す経営者としては遅すぎるスタートだったかもしれない。だが、その後も中島さんの勢いが留まることはなかった。「本場の大衆中華料理を日本に広めたい」という熱い気持ちを胸に、「大鴻運天天酒楼(ダイコウウンテンテンシュロウ)」、「虎萬元(トラマンゲン)」、「紅虎餃子房(べにとらぎょうざぼう)」などを次々とオープン。飲食業界に自らの手で風穴を開けたのだ。経営者である中島さんは、どんな思いでここまで躍進してきたのだろうか。
「私は経営者でもありますが、同時に料理人でもあり、店舗(インテリア)デザイナーでもあるんです。経営も料理もデザインも、どんな仕事も私にとっては価値が等しく楽しんで取り組めるもの。これまでもそうやって生きてきたし、これからもそうしていきたい。わずかでも芽が出たら、そこに希望をつなげて懸命に広げていけばいい。大切なことは『消費者』を一番に考えること。どんな種類の店でもプロデュースする意味では同じなんです。要は、人をウキウキさせたり、このお店に行ってみたいと思わせることが重要。そのためにはどうするかをずっと考えるんです。それと、経営者は『すべての責任は自分にある』と考えるのが当たり前。たとえば、従業員が何か失敗をしたとしても、その責任は私にあるんですよ。だって、その人間を雇っているのは経営者である"私"なんですから」
中島さんの仕事に対する情熱はとても深い。常に人を楽しませたいというサービス精神が、際コーポレーションの快進撃を支えてきたのだろう。現在は約300の飲食店をはじめ、古着屋、家具屋、さらには京都の「柚子屋旅館」を経営し、また全国の旅館の再生プロデュースまで幅広く手がけている。
「365日休みなし」という中島さんのプライベートに迫る!
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